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屋島の塩田

屋島周辺では、江戸時代より塩造りが始められ、 1971年まで約200年間続けられた。
塩田は、屋島西町及び屋島東町の平地部に広がっていた(このほか、春日町、木太町、福岡町などでも行われていた)
ここでは、屋島西町の塩田について紹介します。
当初の塩田は入浜式という方式であったが、その後は流下式に変化し、1970年以降は塩田は廃止されて宅地化されました。
そんな塩田の思い出と、現在残る名残を紹介します。
なお、塩田について詳しく知りたい方は、一番下に参考文献を記載しましたので、参考にしてください。
地図と航空写真で見る屋島西町の塩田

明治初年頃の新浜・亥浜塩田
(出典:屋島の塩業誌 編著:山田竹系、発行:青木竹彦、昭和53年1月)

1916年(大正5年)発行地図の屋島西町の塩田


1931年(昭和6年)発行地図の屋島西町の塩田
現在のことでん志度線が開通している

1947年(昭和22年)の屋島西町の塩田


1959年(昭和34年)の屋島西町の塩田
入浜式から流下式に変化している

1967年(昭和42年)の屋島西町の塩田
朝日町の埋立、自動車教習所などが確認できる


1971年(昭和46年)発行地図の屋島西町の塩田
国道11号が開通している

1975年(昭和50年)の屋島西町
塩田が廃止され、造成工事が進んでいる

2007年(平成19年)の屋島西町
屋島大橋が開通し、すっかり宅地化されている

2020年(令和2年)の屋島西町
上記の旧版地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。
上記の航空写真及び地形図は国土地理院ウェブサイト(地図・航空写真閲覧サービス)より作成したものです。

塩田風景の過去と現在(左右対比してご覧ください)
 屋島山上より屋島の塩田と高松市街地
当時の風景 現在の風景

すっかり宅地化しました。
高松港周辺の形状も大きく変わりました。
 塩田内の風景
当時の風景 現在の風景

製塩工場跡地
当時の風景 現在の風景

東部下水処理場付近

屋島西町セブンイレブン付近

屋島西町ハードオフ付近

汐入川

屋島西町の塩田の名残
塩釜神社
塩業の守護とされる塩釜神社

ここには、塩田開拓者である梶原景山の石碑が建立されています。
梶原景山は、高松藩主に命じられ、1753年から塩田開拓をはじめ、難工事の末に塩田を開いた人物です。
記念碑
 屋島西町の屋島中央公園には、かつてこの地が塩田であった面影を永遠にとどめるため、塩田の水門の石材を用いた記念碑が建てられています。
汐入川
屋島の陸地と塩田の境の水路が汐入川で、現在も当時の名残が確認できます
汐入川に架かる橋。土台の石積みは、塩田当時のものと思われます。  
汐入川に面した民家には、川への張り出し、係船施設、階段などがあり、かつては川を利用していたことがうかがえる
屋島浜塩田水門
 東部下水処理場内に残されている当時の水門。もっと近くで見られると良いのですが。
屋島銀座 
塩田から汐入川をはさんで東側には、屋島銀座という商店街があります。現在は数件のみ営業していますが最盛期には多くの商店があり映画館、飲食店など賑やかだったという事です。その名残として古そうな建物や料亭跡などが残っていますが、解体されていく建物も多くなってきています。
  波切不動尊
縁起は不明だが、海上交通安全や嵐から守るために設けられたものと考えられる。  
水路
汐入川以外にも多くの水路がありましたが、埋め立てられた箇所も多くあります。 上記の写真は子の浜東側の水路。 
海岸護岸  
海岸沿いの護岸にはかつての石積みが一部に残っていましたが、高潮対策でほとんど姿を消しました。  
  新浜緑地公園(アッケシソウ)
塩性植物アッケシソウが公園の海水池で保護されています 

 このページは、以下の文献等を参考に作成しました。
・_屋島の塩業誌 編著:山田竹系、発行:青木竹彦、昭和53年1月
・ 塩田のおもかけ 日本専売公社四国支社 昭和48年3月
・ 昭和30年頃の香川県 アーカイブス出版社、2007年1月
・ 目で見る高松・東讃の100年 株式会社郷土出版社、2000年7月
・ 栄光ある転進 屋島の塩田・蘇生の記録 高松市屋島土地区画整理組合 1980年10月
・ 塩田はるかなり もう一つの屋島 高松市屋島土地区画整理組合 1981年 
・ 屋島風土記 屋島風土記編纂委員会 2010年3月



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